岡山の舞踊・演劇の感想

岡山のダンス(主にコンテンポラリーダンス)や演劇の感想を書きます。

燐光群『藤原さんのドライブ』レビュー

差別を知ること

 岡山県出身の劇作家・坂手洋二率いる燐光群の新作『藤原さんのドライブ』が、2022年11月29日に岡山私立市民文化ホールで行われた。ハンセン病の療養所である長島愛正園を舞台にした作品である。
 物語は現代で新型コロナウイルスと思わしき謎の感染症にかかってしまった男とNHKの朝トラ「ちむどんどん」にも出演していた円城寺あやが演じるホシが隔離施設として再び役割を持った長嶋に送られるところから始まる。
 そこで、ハンセン病が完治しても島に残ったヤマモトさんやタマさんといった人たち。そして、入所者の帰省の際にドライバーとして活躍したフジワラさんが登場する。元ハンセン病患者と謎の感染症にかかってしまった人たちとの交流を描いた現代と過去がリンクした作品である。さらに、長島には隔離者が出られないようにバリアが貼られているという設定もあり、どこかSF的な雰囲気も漂う。
 物語で描かれるのはハンセン病の差別や人権侵害といった問題だけではなく、まるでマインドマップのように現代社会の抱える問題が次々と浮き出てくる。作中、Jアラートが鳴り響き、北朝鮮のミサイルが近くに被弾しますというアナウンスが鳴り響いたり、実際に使用されている安楽死できるガスマスクが出てくる。日本にはこれだけ多くの問題が隠され残されているのだということを改めて思い知らされた。実に坂手洋二らしい戯曲である
 さまざまな問題が定義されていく中で、その根本にあるのは、命とは、人権とは何かということだろう。
 途中、藤原さんの過去の回想シーンがはじまり藤原さんがドライブ車で入所者の公共をめぐるというシーンが出てくる。そこでは様々な心情を持った入所者の複雑な心境が語られる。
 例えば、現代でも島に乗って暮らすヤマモトさんの回想シーンでは、ヤマモトさんは故郷に戻っても実家には帰らず、ただ周囲を回るだけだ。世間の目を気にして実家にすら戻れないのだ。ヤマモト役の川中健次郎の諦めに似た、寂しそうな演技が観客の心を掴んだ。 
 山本さんと同じく島に暮らすタマさんのシーンでは、ひさしぶりに実家に戻っていると自分を追い出した人たちは全員亡くなっていたことがわかる。タマを演じる中山マリの「ざまあみろ」と言いながらもやはりどこか寂しそうな演技が心に残る。
 さらに物語が進むにつれて 2016年に神奈川県で起きた相模原障害者施設殺傷事件をモチーフにした話まででてくる。元障害者施設職員が入所者を殺傷したというしたという衝撃的な事件だ。その障害者施設の元所長という(設定の)人物が出てくる。
 ここから見えてくるのは坂手洋二もパンフレットで述べていることだが、ハンセン病と言う差別も現代では克服したように見えても、実は姿を変えて別の人たちを差別しているということだ。差別とはその対象を変えて現代にまで残っているということなのだ。

 長島に閉じ込められた人たちの何人かは脱出することを決意するのだが、それは、ひょんなことから島の外に出た時に世間周辺の街に人がいなくなっているということを知ったからだ。おそらく、北朝鮮のミサイルが着弾したので避難したのだろう。むろん明確に語られることはないが。ただ島全体にバリアが張られていたとしたら爆発も見えなかったとすれば辻褄はあうだろう。
 話が反れたが、それが伝えているのは、世間の目が消失することによって島から脱出できたように、世間がかわることでしか、差別を乗り越えていくことはできないということだろう。所詮は綺麗ごとなのかもしれない。しかし、それでもやらなければならないのだろう。
 そのためには知ることが大事なのだ。ハンセン病とはどのような病気なのか(実際、私はこの演劇をみるまでハンセン病とはどのような病気なのかよくわからなかった)や差別さえている人の気持ち。なにかひとつでもいいからそれを知っていくことが私たちの行動が変わり、差別の解消に繋がるのだ。この演劇を見ることでそれらを知ることができるようになっている。その点ではすぐれた戯曲であると言える。

「そして、六度目の始まり」劇団ひびき レビュー 

共に食事をすることの大切さ

 天神山文化プラザで公演された劇団ひびき60周年記念公演である。劇団ひびきは岡山でもっとも歴史のある劇団である。11月26日から27日に天神山文化プラザで上演された。今作は公演日によってエンディングが変わるマルチエンドを採用している。私は26日のみ鑑賞した。そのため、26日の公演の感想となっていることを承知願いたい。

 あらすじは60年記念公演を終え稽古場で打ち上げを行う劇団員。その劇団に残されていたノートには不思議な話があった。劇団の結成当初ルリという謎の女性がやってきて「60年後にまたくる」と言い残して去っていったという話だ。そして、60年後の今日稽古場に本当にルリという女性がくるのだ。実はルリはアンドロイドであり彼らは、人類滅亡を阻止するか、人類滅亡を阻止する有益な方法をルリに教えるというものだった。劇団員たちはルリの問いを考えていくという物語だ。

 この作品では、みんなで食べるシーンがよく登場する。お好み焼きにカレーライス、お茶を飲むなど。しかも、実際に舞台上でお好み焼きを焼いて、カレーを装い、役者が食べるのだ。劇場にお好み焼きやカレーのにおいが劇場に充満した。 食べる振りをするだけでもよかったはずなのに、手間をかけてまでリアリティを追求するのはなぜか。

 食はこの作品で重要な要素だ。何度も食事シーンを見せることによって、登場人物たちの絆が深まっていくのだ。劇団員とルリ。彼らは食事するたびに絆が深まっていく。機械的で真面目なルリのかわいらしい一面などが見える。ここはルリ役・渡結衣の機械的で抑揚のない演技から人間らしい演技のギャップを上手く演じていた。

 私はこのシーンを見ていて山極壽一の言葉を思い出した。山極寿一は触覚や嗅覚、味覚という「共有できないはずの感覚」が、信頼関係をつくる上でもっとも大事なものと述べている。以下、山極の言葉の抜粋だ。

 

チームワークを強める、つまり共感を向ける相手をつくるには、視覚や聴覚ではなく、嗅覚や味覚、触覚をつかって信頼をかたちづくる必要があります。

 

合宿をして一緒に食事をして、一緒にお風呂に入って、身体感覚を共有することはチームワークを非常に高めてくれますよね?

 

 視覚のような共有できる感覚ではなくて、味覚という身体感覚を共有することで仲間意識が芽生えるのだ。この作品が描きたかったものはそれだ。劇団員たちとルリが仲が深まる様子を上手く表現していると言っていい。コロナ禍で分断され、直接的な関わりが薄くなっている現代社会にこそ響くところがある。

 ところが、皮肉にもたべることが悪い部分にもなっている。というのも人類滅亡の回避する手段として考え出したのは、食によって皆、仲良くなっていった。同じように世界規模で食と平和のためのオリンピックのようなものを開催することだ。確かに、団員たちとルリはご飯を共に食べることで絆を深めていった。(といっても作中では2日間しか経っていないのだが)しかし、それは5人という少人数だからこそだ。山極壽一も言っているが、一人の人間が繋がれるのは150人が限界だ。全世界の人に通用する訳では無いのだ。少し疑問を感じてしまった。

 ストーリーはやや疑問に残ったが、彼らが表現しようとしたことは評価できる。コロナ禍という分断された時代に共に食べることの大切さ。そして、実際に舞台上で調理することによって劇場内に食べもののにおいが充満し、観客もそれを感じる。つまり、劇場にいた全員が同じ身体感覚を共有していたのだ。その時、劇場は不思議な一体感に包まれていた。その時、ホールの中では確かに平和の匂いを漂わせていた。

 

引用文献(参照2022年12月5日)

cybozushiki.cybozu.co.jp

Dance performance2022~今を描く~ レビュー

 11月15日にDance performance2022~今を描く~が行われた。岡山県現代舞踊連盟の20周年公演である。岡山県で活動するダンサーたちが集い、各々の作品を発表した。まず感動したのはほぼ満員の観客席だ。もちろん、一つ席を空けての着席だったが、それでもコロナ禍になってから、ここまで満員になったのははじめてみた。観客が戻りつつある。アフターコロナという今を感じさせた。そして同じように、発表会の各々の作品も進化していて今を感じさせた。

 

 道満の「ここにいる」は、虫が卵から孵化するまでを描いた作品だ。卵という殻から突き破る様子は葛藤する人間の姿と重なる。私は2020年の「学びの発表会」での道満の作品を思い出した。これも現代舞踊連盟の企画した発表会で、道満は「居場所」という作品を発表した。

 この作品もまた場所に閉じ込められてもがくもその場をぬけだす作品だった。道満曰く服を脱ぐのは脱皮のメタファーだそう。構造としては「居場所」と「ここにいる」はまったく同じといっていい。同じモチーフを繰り返すのは、彼女にとって囚われている感覚があり、そこから次に進むこと。これが彼女にとってのテーマなのだろう。このふたつの作品を比べることで彼女の心情の変化が見て取れる。

 特に顕著なのは帰結にあるように思う。居場所では、服を脱ぎゆっくりと前を向いて下手へと歩いていくというラストだった。背筋を伸ばして歩くその様は、しっかりと生きていくという力強い決意を感じさせた。しかし、「ここにいる」は殻から抜け出た時、前傾姿勢で左右を見ながら進んで行った。それはまるでようやく出れたのに、これでいいのかと迷っているように見えた。何度も表現しようとしたモチーフの帰結は、前を向いてまっすぐ進むのは難しいということ。それでも迷いながら進むという彼女なりの答えを見つけだしたように感じられた。それは後退ではないと思う。無理に成長しない。迷いながらも進むこと。それは彼女なりのリアリティを感じさせた。彼女にとって進歩なのだろう。彼女が次にどんな作品を創作するのか楽しみだ。

 進化という意味では武内の作品もまた進化している。光に対する関係性だ。武内は光をモチーフにした作品を多く発表している。2019年の学びの会ではコウタイという作品を発表した。行ったり来たりして、「後退」していた武内は現状を打破しようと「抗体」となり最後には光り輝き「光体」となって前に進んでいくという作品だった。

 ゆるびの舎で行われた昔ここは海だったは岡山県早島町にある古民家「ゆるびの舎」で行われたアートイベント古民家の土間に水を入れた水槽を設置し、そこに光を当てることで、波の模様が光となって床に映し出される。土間に海を創出させていた。

 海に流されながらたゆたう踊りは、まるで海によって浄化されていく様を思わせた。

このように、武内にとって光とは成長や解放のようなポジティブな象徴であったわけだ。

だが、今回の作品はどうか。暗闇の中から読書灯のようなライトに照らされた武内。だが、光によって照らされた場所にしか動けないようだ。別の照明が当たり自由に動ける空間が増え、また別の空間に照明が当たり自由に動ける空間が増えというように、まるでマトリョーシカのように、横並びに大きくなった照明の光が増えていった。最後に照らされた場所にあったのは地球儀であった、竹内はその時期を持って踊り始める。驚いた。浮遊感を感じさせるその動きは月と地球の関係のように思われた。武内が表現しているのは月と考えれば先ほど、なぜ光にとらわれたような動きをしたのかなんとなくわかる、月は太陽に照らされているから輝く場所がないと太陽間に寝られない、それは光から逃げられないという呪縛のようなイメージに重なる。

 このように、武内にとって光の関係が過去作と比べて変化しているのだ。光がむしろ自分の行く手を阻むもの、ネガティブなイメージを持ち始めたのである。そして、最後にはその光から自分で離れたのだ。竹内が光というモチーフに新たな側面を見出したように見えた。陰の側面に光を当て始めたように見えた。これは大きな変化であり、進化と言っても良いだろう。

 

 ダンサーたちが積み上げてきた歴史の層を感じられる発表会であった。ダンサーたちは確かに今を描いていた。作品はダンサーたちのどのように生き、今をどのように感じているかを表出するものだからだ。はたして来年以降はどんな進化を見せ、どんな今を描くのだろうか。

「二十一時、宝来館」 レビュー

 「ばぶれるりぐる」は2020年劇作家協会新人戯曲賞受賞を受賞した竹田モモコ率いる劇団。その劇団による公演『二十一時、宝来館』が11月29日〜30日の2日間、天神山文化プラザで上演された。正直、ここ最近みた岡山の演劇の中で飛び抜けて面白かった。

 舞台は、廃業が迫る古ホテルの喫煙所。ホテルの宴会場で同窓会がひらかれ、久しぶりに集まった女3人。地元をでて大阪で働く沙英。地元で結婚生活を送るゆかり。そして、地元でクリーニング屋を営むちぐさ。そして、それを見守る禁煙室の灰皿。この灰皿は実際に舞台セットに置かれているのだが、実際に人間が演じている。

 女による見栄の張り合いが話の流れだ。そして、物語が進む事に労働や結婚、さらには同性愛といった様々な要素が織り込まれ複雑に絡まっていく。

 それらが丁寧に描かれている。派遣でありながらも自分の仕事をかっこよく見せようとする沙英、沙英と2人で写真をとる時自分の顔を小さく見せようと沙英を前にしようとするゆかり。どれも共感できるものであり、観客の笑いを誘った。

そのような題材を扱った作品でありがちなドロドロ感はなく、心にスっと入ってくるのは、女性たちが現代人に共感できる弱みを抱えているからだ。大阪という土地で女一人がんばる沙英。結婚して幸せそうに見えるが、夫や姑問題で上手くいっていないゆかり、レズビアンで沙英を密かに想うちぐさ。それぞれの弱みが普遍性を持っていて観客に訴えてくる。だから、どこか憎めない人物たちになっている。

 特に私が心うたれたのは、竹田モモコが演じるちぐさだ。大胆な性格でありながらも沙英を思う気持ちはとても繊細だ。ちぐさは、沙英に何度か一緒に暮らそうと提案する。変といわれても強引に誘おうとする。だが沙英が離れたあと、ため息をついてうずくまる。その姿にぐっときたのだ。

 レズビアンのちぐさにとって一緒に住もうと誘うのは大変勇気のいることだったのだ。沙英が作中で言っているように、同居は世間の目が気になるし、あんた頭おかしいといわれる。急に同居を誘うのは端から見れば異質に見えるのだ。ある意味、強引なことをしないと沙英に近づけないちぐさの不器用さが表出していた。

ちぐさは大胆で女一人で生きてる力強い女性である。そんな彼女が落ち込む要素を見せた時、彼女は勇気を出して共に同居を誘っていたことが伝わってきた。ちぐさにとって一緒に暮らそうというのは、プロポーズのようなものだ。そこに心動かされたのであった。

ぞんな繊細なちぐさを竹田モモコの自然体な演技で見事に表現していた。そして、ちぐさに翻弄される沙英を演じる東千紗都も好演であった。「一緒に暮らそうか」というちぐさの提案に突っつっこむ東の、まさに大阪人のノリの良さのようなテンポよいツッコミは見ていて気持ちがよかった。ゆかりや名脇役ともいえる灰皿を演じるも配役はかなりレベルが高かった。

そして、なにより魅力的な登場人物を描く脚本はさすがだ。雪が降り積もるような繊細な言葉の積み重ねから見えてくる彼女達の虚栄心や弱みが、彼女達の人生の奥行きを感じさせ、立体感ある人物描写に成功している。

 演劇とは、登場人物たちの心の動きを描いたものだ。その意味でこれぞ、演劇といえる出来だった。ばぶれるりぐる、必見である。ぜひまた岡山に来てほしい。ちなみに、今回の『二十一時、宝来館』の台本は戯曲デジタルアーカイブにて無料で公開されている。URLを下に載せている。生にはかなわないが雰囲気を感じ取れると思う。こちらも必読である。

 

『二十一時、宝来館』 戯曲デジタルアーカイブ

https://playtextdigitalarchive.com/drama/detail/243

第46回モダンダンス発表会 bitter quartet+「ヒハマタノボル」レビュー

 11月23日(水)モダンダンス発表会が行われた。モダンダンスだけでなくヒップホップやロックダンスなど様々なジャンルが上演されたが、bitter quartet+の「ヒハマタノボル」は目を引いた。
bitter quartetは岡山大学ダンス部OBによって構成された社会人ダンスユニットである。
発表会で男性が出演する作品はロックダンスの作品が主であった。だからこそ、彼らの踊り方は目立った。文字通り踊り狂うのだ。体を外に放り投げるように跳躍、男性ならではの力強い踊りに圧倒された。  この作品は男性7人による群舞作品だ。黒いスーツジャケットに白Tシャツの衣装は、社会人を思わせた。
そんな彼らの踊りは社会人生活で溜め込んだ衝動を一気に解放するようなエネルギーに満ちた踊りであった。
 また、面白いと思ったところは作品冒頭ダンサーがポーズを決めるところだ。まるで戦隊ヒーローのように思われた。そして、踊り切った後にまたポーズを決める。先ほどとは打って変わって爽快感に溢れていた。踊り解放したことによって、リフレッシュされ、また明日も生きていこうという生命力に満ちていた。
それは「ヒハマタノボル」というタイトルにも繋がる。太陽は沈んでもまた昇ってくるという性質から、希望の象徴でもある。ダンスは、明日も生きようという前向きな気持ちにさせてくれる。そして、観客もダンサーの踊る姿を見て観客もフレッシュな気分にさせてくれるのだ。

表現文化学科表現創造コース身体表現ゼミナール第17回卒業制作発表会『彩虹』感想

 11月5日に就実大学で人文科学部表現文化学科の身体表現コースの学生たちによる第17回身体表現ゼミナール卒業制作発表会『彩虹(さいこう)』が就実大学で行われた。以下、作品の感想を述べることにする。

 

1/365

 

 会社勤めと思われるラフな格好をした女性。タイトル通り、365日うちの1日。つまり日常を描いている。ストーリーに大きな山があるわけではない。しかし、伸びやかなダンスは、単調な日常をしっかりと楽しもうという意気込みを感じさせ、観客も同じような気持ちにさせてくれる。

 日常動作の繰り返しから表出するのは、日常の中でいかに身体が関わっているかということだろう。たとえば、満員電車から解放されれば、伸びをして体を解放する。身体と精神は密接に関わっていることを思い出させる。日常において自分の体に注目することはほとんどないが、実は思っているより身体は豊かだ。日常の中の身体性に注目した作品とも言えるだろう。

 だた、日常を描くことだけに集中しすぎていて何を伝えたいのかが弱くなってしまっている。作品内に思想性を感じさせることができればより良い作品になるだろう。

 

私だったモノ~こぼれる記憶~

 

 イスに座る女性。そこにママという声が聞こえる。身体はその声をを求めるように手を伸ばす。恐らく、親と確執があるのだろう。小寺は椅子から離れようとせず、むしろ、椅子の後ろに隠れるような動作を見せる。それは依存している子どものようにも見えるし、小椅子は縛りつける親のメタファーのようにも見える。むろん、椅子から離れようと努力しもがく。しかし、自立できず心の声を聞かずに抑圧した結果、自分ではない異形の者=私だったモノができあがるというバッドエンドだ。この異形なものの身体の形は興味深い。照明の陰影がダンサーの表情を隠し不気味な印象を与え、まさに異形のものであった。

 

ピティフル

 

 ピティフル。聞き慣れない単語であるが、「かわいそう、気の毒な」を意味する単語である。

水色のドレスに白色のフリルがたくさんあしらわれたロリータの衣装。だが、その身体は服服装とは対称的にロックダンスのように機械的な動きをする。人形であると同時に、囚われの身であることを想起させる。そこに妖精が登場し、魔法をかける。すると、自由に動けるようになる。

 ところが、人形はまるで観客に見せつけるように手の耳をつける。つまり、媚びを売り始める。自由になったはずなのに、また他人の目を気にし始め、媚びを売ってしまう。その結果、壊れてしまう。

 他者のために生きるピティフルな人形ということだ。人形を題材にすることによって人形とは見られるモノであり、コレクションされるものだ。常に人の目にさらされているものだ。さらに、衣装もロリータ風をきていることによって男性によって消費される女性というフェミニズム的な見方をすることもできる。さまざまな解釈が可能な作品といえるだろう。

 囚われの身を人形に喩えるというのは、他の作品でも見たことがあり、必ずしもオリジナリティのあるとは言えないが、さらに一歩進み、見られる人形の特性を活かした作品で評価できる。

 だが、自由になったところから媚びを売り始めるという動きの展開はやや分かりずらい。ここが分からないと壊れてしまうオチが見え辛い。自由になった後の嬉しさから、だんだんと媚びを売りたくなる心情を丁寧に描けばもっとわかりやすく、多くの人に共感してもらえる作品になるだろう。



憧れと自惚れ

 

 スクールカーストを題材にした作品。一般的にスクールカーストといえば、最高位と最底辺という対比によって描かれることが多いが、この作品は一軍女子と、一軍の中の最底女子の対話しているところにオリジナリティがある。それは、一軍の中にもさらに階層があるという、最上位と最下位の対比ではわかりづらい、カースト制度の細部を描くことに成功している。

 面白いと思ったのは主人公が一軍女子について行けなくなり、そこに眼鏡をかけた一軍ではない最下位女子が上着をかけるが、その上着を投げ捨てることだ。上着は優しさの象徴である。予想外の展開で観客を裏切ってくれる。そして髪をなびかせ進んでいく。やさしさなんていらないということだ。

しかし、一軍女子の方に歩いていく姿は哀れと思えるほど悲壮感を漂わせていた。

そこには、従わざる得ない社会的環境と我々人間の一人ひとりのプライドがそれを作り出しているということを端的に表現している。



めぐる

 

 3年生による群舞作品。白い衣装を身にまとい10人が跳躍し踊る、生命力に満ちた作品である。

 そのラストは、ダンサーが円になって土を堀り、折り重なって盛り土となる。その土から一人が立ち上がる。新たな芽を感じさせ、命は循環することを思わせた。命は循環する。それは人間も例外ではない。人間もまた、子を産んだり、文化を継承して死んでいく。その大きな輪廻の中に生きているちっぽけな存在にすぎない。しかし、ちっぽけな存在だからこそ一生懸命に生きようとする。命は輝く。めぐるが伝えているのはそうした命の輝きだ。

 動きはやや硬さがあり、生のよろこびを感じさせるには浮遊感や手足を大きく見せる意識がほしいところ。しかし、たどたどしさが一生懸命に生きようとする草木と重なって見えた。

その一生懸命に踊る姿に、コンテンポラリーダンスのダンサーが陥ってしまいがちなテクニック至上主義やナルシズムが入り込む余地はない。卒業制作発表会では、技術を磨きつつ、純粋な気持ちを忘れずに作品を創作してほしいと切に願う。

 

 

 作品が始まり舞台の袖から出てきたのは腕であった。それをひっこめたと思いきや今度は顔が。そして、全身を飛び出すが、体にゴムがまとわりついていてダンサーの行く手をさえぎる。腕や顔といった体の一部を見せてから全身を見せる。その流れと全身にまとわりついたゴムが相まって大きなインパクトを残す。

 ゴムは自身の行く手を塞ぐ障害である。ゴムの伸びが限界値に達した時とその瞬間引っ張られる体。その力に耐えようと足を踏み込み、耐えようとする身体は美しい。また、照明は後ろの壁を照らす青い光のみだ。だから、身体はシルエットとして浮かび上がり、耐える姿が強調される。

 残念なのは、中盤ではゴムを捨て身体のみで踊ることだ。ゴムの伸縮性が人間の体の形の限界を押し広げてくれる。それを捨てた時、身体の力強さは鳴りを潜めてしまった。ゴムは、この作品のアイデンティティーであり、最後までゴムを使って欲しかったと思っている。

 しかし、これは一概に作者の問題だけとは言えない。おそらく、人が舞台袖にいてゴムを固定する役割を果たしている。発表が行われたステージは、大学にある音楽ホールだ。舞台への出入りは舞台後方でしかできない。必然的にゴムとダンサーの位置は後方に固定される。そうすると、アクセスできる空間が限られてしまう。空間に変化が生まれにくい。それだけで帰結までゴム一本で帰結まで展開するのもやや難しかったか。とても魅力的な作品であっただけに、ゴムと身体との関係をもっと見たいと思った。



猫の肖像~その瞳にうつるもの~

 

 タイトル通り、猫をモチーフにした作品。優雅に暮らしていた猫が、災害に巻き込まれて家を失いながらも、懸命に生きていこうとする作品。

ふと、副題に目が付いた。~瞳に映るもの~頭に浮かんだのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』だ。教師の家に飼われている猫の視点から、猫の瞳に映った人間社会を描いたものだ。この作品のオマージュなのだろう。そう仮定すると、作品の帰結もわかる。光に照らされながら恍惚とした表情を浮かべ、たゆたう。昇天しているのだ。「吾輩は猫である」も猫は甕に落ち溺死する。このように、影響を受けていると予想できる。

吾輩は猫であるでは瞳に映るものは人間模様だか、猫の肖像ではそこに映るものは水害なのだ。そして、そこから逃げること、生き延びるために行動すること。

それは水害だけではなく、コロナや2022年のウクライナ侵攻など現代の人間が直面する困難と繋がる。それでも必死に生きるということだ。それを猫に例えて表現している。

猫の目に映るものそれは、人間の社会と変わらぬものと言えるだろう。

 

いたい

 

 いたいはダンサーの身体に深く関わっている作品だ。女性一人のソロ作品。作品全体からタイトルのごとく痛々しさを感じさせるのは、金属がかすれるような不快感のある音楽はもちろんだが、それ以上にダンサーの身体にあると思う。

 ダンサーの衣装は黒いパンツにへそ出しのタンクトップだ。それは、ダンサーの細い体を強調させる。身体から痛々しさが表出しているのだ。そんなダンサーが踊るゆえ、作品全体にそれが充満する。特に彼女が仰向けの体勢になり、腰だけ上にあげる動きになった時、ただでさえ薄い腰がより細く見える。そのアンニュイな表情と相まって、助けを求めているようにも見え心を掴んだ。

 そんな彼女をさらに追い詰めるのはシャッター音である。彼女は写真を撮られているのだ。痛々しい姿を撮られるのを彼女は拒む。写真と言っても色々あるが、モデルが写真を取られる時は、ポーズをつけて綺麗な自分を作る。被写体の自分は作られたものなのだ。

彼女も偽りの自分を撮られているのだ。痛いと思っても撮られることをやめられない。それはSNSで他人から承認を求める私たちにも繋がるところがある。

 自らの身体性と承認欲求を上手く組み合わせた作品と言えるだろう。

「みみをすます」 岩下徹即興ダンス レビュー

 「みみをすます」は山海塾の踊り手、岩下徹の即興で踊られるソロ作品だ。タイトルは谷川俊太郎の同名詩から名づけられた。まず、特筆すべきは上演される会場だ。黒住教神道山の日拝所で行われた。黒住教とは岡山に本部を構える宗教だ。天照大神を崇め、毎朝、朝日を拝む日拝が行われている。それが行われる場所が日拝所というわけだ。
 ここからの眺めが素晴らしい。瀬戸内海まで見渡せる見晴らしの良さと豊かな木々に囲まれ、そこに木製の舞台が設置されており、そこで日の出に信者たちが集まり日拝するのだ。まさに聖域であった。
 そんな生気ある場所で岩下は即興ダンスを踊る。決まった振付はない。岩下の身体感覚をそのままダンスへ反映する。例えば、聞こえる鳥のさえずりや虫の音に合わせて舞い、ときに観客の反応なども取り入れていた。
 日拝所という空間で起こるすべてのことを取り込んで動きは変容していく。自然の中で身体の感覚を研ぎ澄まし、感じたことを動きに反映する。自然と共に踊る姿はアニミズム的な雰囲気を漂わせていた。
 私はバリ島やジャワ島などのインドネシア舞踊を思い出した。インドネシアは土着の信仰としてアニミズムが根づいている。「インドネシア芸術への招待」という本では、インドネシア芸術は「祖先崇拝や精霊崇拝の儀式において神がかり(トランス)を伴うことが多く」と述べられている。これは私見なのであるが、自然のために踊っているうちに、踊り手と自然が一体になるのがトランス状態なのではと考えている。そう考えると、岩下は踊りの中で何度かトランス状態に入っていた。 
 その場で何度も小刻みにジャンプしている動きは岩下が動いているのではなく、木々たちが岩下の身体を支配し動かしているように見えた。鳥のさえずりに合わせ岩下が動く動作も、鳥の鳴き声が岩下を動かしているとしか思えなかった。
 だが、そのトランス状態も長くは続かなかった。少しすると彼の身体はまた別の音や対象に興味が移り、その感覚を表現しようとする。むしろ、一瞬のトランス状態を得るために踊り続けるとさえ思えた。
 神がかりになった時それを継続することもできたはずだ。しかし岩下はそれを拒否する。なぜか。終演後、岩下のトークがあった。そのときの岩下の言葉を借りれば「内にこもってしまう」からだろう。谷川俊太郎の「みみをすます」という詩は、一つの音だけでなくいろいろな音を聴きなさいというメッセージが込められている。
トランスというのは、一つの身体感覚だけに集中することでもある。それは一つの音だけに集中することだ。だからこそその状態を長くは続けず、他の音や感覚にみみをすますことを岩下は選んだのである。それは彼が己の身体感覚に正直に向き合っていたことであり、誠実に向き合っていることを感じさせた。

引用文献
皆川厚一編「インドネシア芸能への招待―音楽・舞踊・演劇の世界」p14、2010、東京堂出版