岡山の舞踊・演劇の感想

岡山のダンス(主にコンテンポラリーダンス)や演劇の感想を書きます。

表現文化学科表現創造コース身体表現ゼミナール第17回卒業制作発表会『彩虹』感想

 11月5日に就実大学で人文科学部表現文化学科の身体表現コースの学生たちによる第17回身体表現ゼミナール卒業制作発表会『彩虹(さいこう)』が就実大学で行われた。以下、作品の感想を述べることにする。

 

1/365

 

 会社勤めと思われるラフな格好をした女性。タイトル通り、365日うちの1日。つまり日常を描いている。ストーリーに大きな山があるわけではない。しかし、伸びやかなダンスは、単調な日常をしっかりと楽しもうという意気込みを感じさせ、観客も同じような気持ちにさせてくれる。

 日常動作の繰り返しから表出するのは、日常の中でいかに身体が関わっているかということだろう。たとえば、満員電車から解放されれば、伸びをして体を解放する。身体と精神は密接に関わっていることを思い出させる。日常において自分の体に注目することはほとんどないが、実は思っているより身体は豊かだ。日常の中の身体性に注目した作品とも言えるだろう。

 だた、日常を描くことだけに集中しすぎていて何を伝えたいのかが弱くなってしまっている。作品内に思想性を感じさせることができればより良い作品になるだろう。

 

私だったモノ~こぼれる記憶~

 

 イスに座る女性。そこにママという声が聞こえる。身体はその声をを求めるように手を伸ばす。恐らく、親と確執があるのだろう。小寺は椅子から離れようとせず、むしろ、椅子の後ろに隠れるような動作を見せる。それは依存している子どものようにも見えるし、小椅子は縛りつける親のメタファーのようにも見える。むろん、椅子から離れようと努力しもがく。しかし、自立できず心の声を聞かずに抑圧した結果、自分ではない異形の者=私だったモノができあがるというバッドエンドだ。この異形なものの身体の形は興味深い。照明の陰影がダンサーの表情を隠し不気味な印象を与え、まさに異形のものであった。

 

ピティフル

 

 ピティフル。聞き慣れない単語であるが、「かわいそう、気の毒な」を意味する単語である。

水色のドレスに白色のフリルがたくさんあしらわれたロリータの衣装。だが、その身体は服服装とは対称的にロックダンスのように機械的な動きをする。人形であると同時に、囚われの身であることを想起させる。そこに妖精が登場し、魔法をかける。すると、自由に動けるようになる。

 ところが、人形はまるで観客に見せつけるように手の耳をつける。つまり、媚びを売り始める。自由になったはずなのに、また他人の目を気にし始め、媚びを売ってしまう。その結果、壊れてしまう。

 他者のために生きるピティフルな人形ということだ。人形を題材にすることによって人形とは見られるモノであり、コレクションされるものだ。常に人の目にさらされているものだ。さらに、衣装もロリータ風をきていることによって男性によって消費される女性というフェミニズム的な見方をすることもできる。さまざまな解釈が可能な作品といえるだろう。

 囚われの身を人形に喩えるというのは、他の作品でも見たことがあり、必ずしもオリジナリティのあるとは言えないが、さらに一歩進み、見られる人形の特性を活かした作品で評価できる。

 だが、自由になったところから媚びを売り始めるという動きの展開はやや分かりずらい。ここが分からないと壊れてしまうオチが見え辛い。自由になった後の嬉しさから、だんだんと媚びを売りたくなる心情を丁寧に描けばもっとわかりやすく、多くの人に共感してもらえる作品になるだろう。



憧れと自惚れ

 

 スクールカーストを題材にした作品。一般的にスクールカーストといえば、最高位と最底辺という対比によって描かれることが多いが、この作品は一軍女子と、一軍の中の最底女子の対話しているところにオリジナリティがある。それは、一軍の中にもさらに階層があるという、最上位と最下位の対比ではわかりづらい、カースト制度の細部を描くことに成功している。

 面白いと思ったのは主人公が一軍女子について行けなくなり、そこに眼鏡をかけた一軍ではない最下位女子が上着をかけるが、その上着を投げ捨てることだ。上着は優しさの象徴である。予想外の展開で観客を裏切ってくれる。そして髪をなびかせ進んでいく。やさしさなんていらないということだ。

しかし、一軍女子の方に歩いていく姿は哀れと思えるほど悲壮感を漂わせていた。

そこには、従わざる得ない社会的環境と我々人間の一人ひとりのプライドがそれを作り出しているということを端的に表現している。



めぐる

 

 3年生による群舞作品。白い衣装を身にまとい10人が跳躍し踊る、生命力に満ちた作品である。

 そのラストは、ダンサーが円になって土を堀り、折り重なって盛り土となる。その土から一人が立ち上がる。新たな芽を感じさせ、命は循環することを思わせた。命は循環する。それは人間も例外ではない。人間もまた、子を産んだり、文化を継承して死んでいく。その大きな輪廻の中に生きているちっぽけな存在にすぎない。しかし、ちっぽけな存在だからこそ一生懸命に生きようとする。命は輝く。めぐるが伝えているのはそうした命の輝きだ。

 動きはやや硬さがあり、生のよろこびを感じさせるには浮遊感や手足を大きく見せる意識がほしいところ。しかし、たどたどしさが一生懸命に生きようとする草木と重なって見えた。

その一生懸命に踊る姿に、コンテンポラリーダンスのダンサーが陥ってしまいがちなテクニック至上主義やナルシズムが入り込む余地はない。卒業制作発表会では、技術を磨きつつ、純粋な気持ちを忘れずに作品を創作してほしいと切に願う。

 

 

 作品が始まり舞台の袖から出てきたのは腕であった。それをひっこめたと思いきや今度は顔が。そして、全身を飛び出すが、体にゴムがまとわりついていてダンサーの行く手をさえぎる。腕や顔といった体の一部を見せてから全身を見せる。その流れと全身にまとわりついたゴムが相まって大きなインパクトを残す。

 ゴムは自身の行く手を塞ぐ障害である。ゴムの伸びが限界値に達した時とその瞬間引っ張られる体。その力に耐えようと足を踏み込み、耐えようとする身体は美しい。また、照明は後ろの壁を照らす青い光のみだ。だから、身体はシルエットとして浮かび上がり、耐える姿が強調される。

 残念なのは、中盤ではゴムを捨て身体のみで踊ることだ。ゴムの伸縮性が人間の体の形の限界を押し広げてくれる。それを捨てた時、身体の力強さは鳴りを潜めてしまった。ゴムは、この作品のアイデンティティーであり、最後までゴムを使って欲しかったと思っている。

 しかし、これは一概に作者の問題だけとは言えない。おそらく、人が舞台袖にいてゴムを固定する役割を果たしている。発表が行われたステージは、大学にある音楽ホールだ。舞台への出入りは舞台後方でしかできない。必然的にゴムとダンサーの位置は後方に固定される。そうすると、アクセスできる空間が限られてしまう。空間に変化が生まれにくい。それだけで帰結までゴム一本で帰結まで展開するのもやや難しかったか。とても魅力的な作品であっただけに、ゴムと身体との関係をもっと見たいと思った。



猫の肖像~その瞳にうつるもの~

 

 タイトル通り、猫をモチーフにした作品。優雅に暮らしていた猫が、災害に巻き込まれて家を失いながらも、懸命に生きていこうとする作品。

ふと、副題に目が付いた。~瞳に映るもの~頭に浮かんだのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』だ。教師の家に飼われている猫の視点から、猫の瞳に映った人間社会を描いたものだ。この作品のオマージュなのだろう。そう仮定すると、作品の帰結もわかる。光に照らされながら恍惚とした表情を浮かべ、たゆたう。昇天しているのだ。「吾輩は猫である」も猫は甕に落ち溺死する。このように、影響を受けていると予想できる。

吾輩は猫であるでは瞳に映るものは人間模様だか、猫の肖像ではそこに映るものは水害なのだ。そして、そこから逃げること、生き延びるために行動すること。

それは水害だけではなく、コロナや2022年のウクライナ侵攻など現代の人間が直面する困難と繋がる。それでも必死に生きるということだ。それを猫に例えて表現している。

猫の目に映るものそれは、人間の社会と変わらぬものと言えるだろう。

 

いたい

 

 いたいはダンサーの身体に深く関わっている作品だ。女性一人のソロ作品。作品全体からタイトルのごとく痛々しさを感じさせるのは、金属がかすれるような不快感のある音楽はもちろんだが、それ以上にダンサーの身体にあると思う。

 ダンサーの衣装は黒いパンツにへそ出しのタンクトップだ。それは、ダンサーの細い体を強調させる。身体から痛々しさが表出しているのだ。そんなダンサーが踊るゆえ、作品全体にそれが充満する。特に彼女が仰向けの体勢になり、腰だけ上にあげる動きになった時、ただでさえ薄い腰がより細く見える。そのアンニュイな表情と相まって、助けを求めているようにも見え心を掴んだ。

 そんな彼女をさらに追い詰めるのはシャッター音である。彼女は写真を撮られているのだ。痛々しい姿を撮られるのを彼女は拒む。写真と言っても色々あるが、モデルが写真を取られる時は、ポーズをつけて綺麗な自分を作る。被写体の自分は作られたものなのだ。

彼女も偽りの自分を撮られているのだ。痛いと思っても撮られることをやめられない。それはSNSで他人から承認を求める私たちにも繋がるところがある。

 自らの身体性と承認欲求を上手く組み合わせた作品と言えるだろう。