岡山の舞踊・演劇の感想

岡山のダンス(主にコンテンポラリーダンス)や演劇の感想を書きます。

Dance performance2022~今を描く~ レビュー

 11月15日にDance performance2022~今を描く~が行われた。岡山県現代舞踊連盟の20周年公演である。岡山県で活動するダンサーたちが集い、各々の作品を発表した。まず感動したのはほぼ満員の観客席だ。もちろん、一つ席を空けての着席だったが、それでもコロナ禍になってから、ここまで満員になったのははじめてみた。観客が戻りつつある。アフターコロナという今を感じさせた。そして同じように、発表会の各々の作品も進化していて今を感じさせた。

 

 道満の「ここにいる」は、虫が卵から孵化するまでを描いた作品だ。卵という殻から突き破る様子は葛藤する人間の姿と重なる。私は2020年の「学びの発表会」での道満の作品を思い出した。これも現代舞踊連盟の企画した発表会で、道満は「居場所」という作品を発表した。

 この作品もまた場所に閉じ込められてもがくもその場をぬけだす作品だった。道満曰く服を脱ぐのは脱皮のメタファーだそう。構造としては「居場所」と「ここにいる」はまったく同じといっていい。同じモチーフを繰り返すのは、彼女にとって囚われている感覚があり、そこから次に進むこと。これが彼女にとってのテーマなのだろう。このふたつの作品を比べることで彼女の心情の変化が見て取れる。

 特に顕著なのは帰結にあるように思う。居場所では、服を脱ぎゆっくりと前を向いて下手へと歩いていくというラストだった。背筋を伸ばして歩くその様は、しっかりと生きていくという力強い決意を感じさせた。しかし、「ここにいる」は殻から抜け出た時、前傾姿勢で左右を見ながら進んで行った。それはまるでようやく出れたのに、これでいいのかと迷っているように見えた。何度も表現しようとしたモチーフの帰結は、前を向いてまっすぐ進むのは難しいということ。それでも迷いながら進むという彼女なりの答えを見つけだしたように感じられた。それは後退ではないと思う。無理に成長しない。迷いながらも進むこと。それは彼女なりのリアリティを感じさせた。彼女にとって進歩なのだろう。彼女が次にどんな作品を創作するのか楽しみだ。

 進化という意味では武内の作品もまた進化している。光に対する関係性だ。武内は光をモチーフにした作品を多く発表している。2019年の学びの会ではコウタイという作品を発表した。行ったり来たりして、「後退」していた武内は現状を打破しようと「抗体」となり最後には光り輝き「光体」となって前に進んでいくという作品だった。

 ゆるびの舎で行われた昔ここは海だったは岡山県早島町にある古民家「ゆるびの舎」で行われたアートイベント古民家の土間に水を入れた水槽を設置し、そこに光を当てることで、波の模様が光となって床に映し出される。土間に海を創出させていた。

 海に流されながらたゆたう踊りは、まるで海によって浄化されていく様を思わせた。

このように、武内にとって光とは成長や解放のようなポジティブな象徴であったわけだ。

だが、今回の作品はどうか。暗闇の中から読書灯のようなライトに照らされた武内。だが、光によって照らされた場所にしか動けないようだ。別の照明が当たり自由に動ける空間が増え、また別の空間に照明が当たり自由に動ける空間が増えというように、まるでマトリョーシカのように、横並びに大きくなった照明の光が増えていった。最後に照らされた場所にあったのは地球儀であった、竹内はその時期を持って踊り始める。驚いた。浮遊感を感じさせるその動きは月と地球の関係のように思われた。武内が表現しているのは月と考えれば先ほど、なぜ光にとらわれたような動きをしたのかなんとなくわかる、月は太陽に照らされているから輝く場所がないと太陽間に寝られない、それは光から逃げられないという呪縛のようなイメージに重なる。

 このように、武内にとって光の関係が過去作と比べて変化しているのだ。光がむしろ自分の行く手を阻むもの、ネガティブなイメージを持ち始めたのである。そして、最後にはその光から自分で離れたのだ。竹内が光というモチーフに新たな側面を見出したように見えた。陰の側面に光を当て始めたように見えた。これは大きな変化であり、進化と言っても良いだろう。

 

 ダンサーたちが積み上げてきた歴史の層を感じられる発表会であった。ダンサーたちは確かに今を描いていた。作品はダンサーたちのどのように生き、今をどのように感じているかを表出するものだからだ。はたして来年以降はどんな進化を見せ、どんな今を描くのだろうか。